猿の気まぐれ日記

こんにちは!このブログでは、ボイトレの知識やカウンセリング の知識や知恵、本の感想などを気まぐれで綴ります。

猿の読書日記(伊坂幸太郎・SOSの猿)

こんにちは!今回は、新コーナーの猿の読書日記です!(^^)!

まずこのコーナーで一つ目に紹介する本は、伊坂幸太郎の「SOSの猿」です。

この本の軸となっているテーマを自分勝手に分析してみると、「原因」「共感力」「悪魔を使った罪悪感の軽減」この3つが大きいと思います。

まず一つ目の「原因」について話していきます。この小説の、第2の主人公的存在である五十嵐は、感情を入れることなく原因を追究することにたけた、超合理的性格です。しかし、感情が薄いためすべてを合理的に考えてしまい、人の恩情などに関しても薄情なところがあるため、妻にもそれを理由に離婚されてしまいます。五十嵐は、起きたトラブルの原因を調べる仕事を任されており、そこで合理的な思考を使って的確に調査を追究していきます。その中で五十嵐が言っていた発言がとても興味深いものでした。原因は、何か100パーセント何かに偏ることはあり得ないという内容です。自分も、ここにはとても共感できました。基本、自分は30パーセント悪い、相手も30パーセント悪い、あとの40パーセントは他の環境的要因である、というように振り分けられるのが普通だと思います。なので、何かが起こってしまった時に、基本自分は30パーセントくらい悪いと思いつつ、人のせいにしぎず、自分のせいにもしすぎないというマインドがちょうどいいでしょう。さらに五十嵐は、基本一番の原因を、昆虫のせいにしたいと人はいつだって望んでいるといっています。それが一番ありがたいのです。なので、何か問題が起こった時には、どうやって昆虫のせいにするか(比喩)というマインドでいると楽かもしれませんね。そうなると、じゃあ仕方ないかってなるものです。

次に、「共感力」について話します。この小説の主人公である二郎は、共感力が高すぎて困っているような性格です。あまり表には出さないものの、救急車の音を聞くだけで、誰かが泣いているのではないかと想像し落ち込んだり、しなくてもいいおせっかいを、本当はしたくないと思いつつも我慢できずやってしまったりなど、優しい性格です。二郎の母親も、もともとこのような性格であったのが、二郎の父親が他界した後、とてもあか抜けてしまったというエピソードもあります。この小説の中で、このことに関する解決策のようなものも載っています。それは、状況が分からなくなってしまい不安な相手や、また赤の他人であっても不安になってしまった場合は、勝手にその人が幸せに暮らしていたり、その人が幸せになっていく未来を想像するということです。例えば、傷つけてしまって後悔している相手に対して、何か胸につっかえるような罪悪感を覚えてしまった経験はみんなあると思います。しかし、その人にはもう二度と会えないというような状況もたくさんあります。そんなときには、自己満足でその人が幸せになっていく未来を想像することしかできませんよね。でも、これをやるだけで心を軽くすることができるのは確かです、自分もこの本からこの価値観を得られたことはとても良かったです。漫画の話にはなりますが、僕のヒーローアカデミアでも、「自分は自分の人生の主人公で、他人の人生のわき役でしかない」というように、あくまでその相手にとって自分は、長い人生の中でのわき役でしかなかったと言い聞かせ、自分と向き合うのもいいかもしれませんね。

最期は、「悪魔を使った罪悪感の軽減」です。この話には、都市伝説的なことも含めていきます。二郎は、海外に留学した時に、友達の計らいで悪魔払いの人の弟子として働くシーンがあります。でも実際、本当に悪魔に憑かれていたような人は見受けられなかったといいます。基本、悪魔祓い=カウンセリングのようなものではないでしょうか。基本人は、自分の悪いところや弱いところを認めたくないものです。しかし、それと直面せざるを得なくなったとき、どのようにして自分を保つかという手段として、「悪魔に憑かれた」ということを用いるわけです。世界には、「悪魔信仰」というものも存在します。その「悪魔信仰」をしている団体が、本質的にどのような理念や目的を持っているかは自分にはわかりませんし。しかし一つ言えるのが、この「悪魔信仰」というものが、自分の罪悪感を打ち消してくれる一番手っ取り早い方法ということです。

「悪魔信仰」をしていれば、普通は罪悪感を感じることでも、「自分は悪魔を信仰しているから。」といえば罪悪感は半分かそれ以下で済むのでしょう。

この悪魔信仰というものは、西洋的2元論の価値観がベースとなっていますが(天使と悪魔)、日本神話や日本の生活文化を踏まえた日本人の価値観は、人間は心の中に天使も悪魔(日本でいうと鬼)も持っているというものです。八百万の神様というのも、何が良いことで何が悪いことという境界線をはっきりさせないことによってできたものだとも考えられます。

なにほどもほどほどに中庸という考え方をすると、よいのかもしれません。

この本はとても面白いので読みやすく、楽しく良い価値観を提供してくれる本なので、ぜひおすすめです!

次の記事も猿の読書日記のコーナーで、伊坂幸太郎の「砂漠」の紹介をします。

アドラー心理学・承認欲求・課題の分離

今日は、「嫌われる勇気」でおなじみの、アドラー心理学について話していこうと思います!

みなさんは、自分は承認欲求が強い方だと思いますか?

アドラーは、承認欲求を明確に否定しています。しかし、現代のカウンセラーや精神科医などの方々の中には、承認欲求は幸福感を与えたり、努力のエネルギーになるという意見もあります。

自分は要するに、承認欲求も使いようではないかと考えます。承認欲求を利用したいと思ったら利用すればいいし、承認欲求が妨げになると思ったら、はじに置いてしまえばいいのではないかと思います。何事も、決めつけてしまってはうまくやらないものです。

承認欲求はいらない△

承認欲求は必要△

承認欲求は利用できる○

の感覚がいいのではないかと思います。

自分も、恩師や周りの人たちに認めてもらいたいという承認欲求が、最初に自分を変えようと思ったきっかけだったので、明確に否定するのは避けたいです。しかし、すべての人間に好かれる人間などありえないし、逆に気味が悪いです。そう考えると、承認欲求の矢印の方向をあちこちに振りまいていたら、きっと幸せから遠ざかってしまうのではないかと考えます。これを緩めることで、自意識過剰状態も少しは改善されて、体の力も抜けると思います。歌い方レッスン2で教えた人の評価を気にしない方法論もオススメです。

しかし、愛のある関係では、気のおけない関係になることも大事だが、やはり承認欲求は生まれるものです。承認欲求を全て捨ててしまうという思想は、愛がないということもできるのではないかとも思います。承認欲求を捨てているということに理想を求めるのも危険です。

しかし、絶対に踏まえておかなければいけないのが、他人はそう簡単に変えられず、自分が変わったところで相手が変わってくれるわけでもない。自分が他者の期待を満たす必要がないように、他者もまた自分の期待を満たすために生きているわけではないのです。相手にこっちをみてて欲しい、相手に嫌われたくないなどの承認欲求は、相手をコントロールしたいと思う気持ちから来るものであると自覚することも必要かもしれません。

またアドラーは、課題の分離という考え方の提供もしています。個人は、「これは誰の課題なのか。」という視点から自分の課題と他者の課題とを分離していく必要があります。他者の課題には介入せず、自分の課題には誰一人として介入させないという考えです。「馬を水辺に連れて行くことはできるが、水を飲ませることはできない」ということわざがあるように、変わって欲しい他者がいたとして、その人にアプローチをすることはできますが、その人を変えられるのはその人自身であって、変わることの強要をしてしまうと、強烈な反動が返ってきてしまいます。世間で行われているカウンセリングの主な目的も、この水辺まで連れていくことにあります。結局、自分を変えることができるのは自分しかいないのです。

 

アドラーは、他者が自分にどのような評価を下すかは他者の課題であり、あなたにはどうでもないはなしだといっています。

しかし、相手からよく思われたいという気持ちから、自分を磨くのは自分の課題であり、それ悪いことではないと思います。しかし、それに対して相手がどう思うかは相手の課題であるということを心のどこかに置いていないと、相手にとっても自分にとっても後々嫌なことになる可能性はあるので注意です。

みんなから好かれたいという感情だったり、誰にも嫌われたくないという感情は、課題の分離がうまくできていない状態ともいえます。

自分の意見としては、人に興味はほどほどに持つべきであると思っています。他人や他人の感情に不干渉すぎるのは良くないが、過干渉になり、そこに振り回されたり、逆に振り回してしまうというのは、それはそれで誰も幸せにならないのではないかと自分は考えます。

人のために何かをしたいという感情は、あくまで自己満足でやって、感謝されたら儲け物だくらいのスタンスでいるのがいいとも思います。

人に何かを教えるときも、相手のためにという感情がいきすぎて、思い通りにならないときにイライラするよりも、育成ゲームみたいなものだと思って、自分が楽しいから、ゲーム感覚で教えているというスタンスでやるのが一番楽だと思います。それに対して、感謝されるかされないかは、自分の課題ではなく、相手の課題であるという認識を持っていれば、躍起になることもなく、余裕を持てるはずです。

心理的タイプ・中年の危機

心理的タイプとは、心的態度「内向」「外向」を軸に、四つの心的機能「感覚」「直観」「感情」「思考」を組み合せ分類された八つのタイプの性格のことです。つまり人によって個性があり、モノの見方や判断の仕方が異なってきます。四つの心的機能は、「感覚」と「直観」を非合理機能と呼び、モノの見方の特徴を示しのに対し、「感情」と「思考」を合理機能と呼び、物事の判断の仕方の特徴を示す指標です。「感覚」と「直観」、「感情」と「思考」はそれぞれ対極にあります。したがって、感覚機能をよく意識し好んで使う人は、直観機能が発達(意識)しにくく、また直観機能をよく意識し好んで使う人は、感覚機能が発達しにくいです。「感情」と「思考」にも同様のことが言えます。このように、意識しやすく、使うことを得意とする機能を主機能といい、その対極の位置、つまりどの機能よりも無意識の深くにあるものを劣等機能といいます。これらの四つの心的機能は、主機能、補助機能、劣等機能として互いにサポートし合います。

 

また、私たちは中年の危機(ミッドライフ・クライシス)にさしかかったときには、今まで意識し、好んで使っていたものの見方や、判断の仕方では立ち行かなくなってきます。むしろ意識して使ってこなかった劣等機能の中にこそ、自分が苦手な相手を理解する手がかりや、その局面を乗り越える乗り越える手がかりが隠されているものです。

 

<小山望 わかりやすい臨床心理学 参照>

 

基本人間生まれたときは、「感覚」と「感情」が主機能であると思います。そこから、生きていく過程において様々な壁とぶつかることで、「感覚」から「直観」、「感情」から「思考」に移行していくものだと考えます。(人によって差異あり。)例えば、方法論のところで紹介する生活習慣を治す、姿勢を治すなどは、「感覚」から「直観」に移行させるトレーニングであると思います。これは、自分が客観的に見えるようになることで、気付きが増えるからです。感情もまた、生きていくうえでの人間関係で人それぞれのルートで「感情」から「思考」に移行していくのでしょう。「中年の危機」とは、今まで持っていた機能では立ち行かなくなってきたときに、他の機能に移行しようと試みることでありますが、自分も、自分を変えなきゃと思った時に、生活習慣を治すことや、自分の観察ノートみたいなものを書いて、気付きを増やし「感覚」から「直観」に移行しようとしました。また、自分の中の感情や自分の状態(怒り・悲しみ、うつ・落ち込み)を改善しなくてはいけないと思った時に、人は他人から何かを取り入れたり、勉強したりして経験を積むことで、「思考」の面が発達します。人は何か壁があるときでないと、哲学や心理学、その他自己啓発本を読まないというのも、この「中年の危機」状態になっていないからということが言えるでしょう。

 

しかし、「直観」や「思考」が肥大化しすぎて、頭でっかちになってしまっては、生きている実感やストレスフリーに生きられないという面があります。そこで、テキトーに考える、遊びを覚える、という主機能と劣等機能の転換がここでも必要になってくるということでしょう。

鬱病について

自我は、外の世界やエス超自我に絶えず脅かされています。そのため、自分が傷つかないように防衛をし、外の世界との適応を図っています。ここで防衛機制が働くことになります。フロイトは、人間の心について、今、気が付いている心の部分「(意識)」と、全く意識できない「(無意識)」に分け、さらに無意識を普段は意識しなくても何らかのきっかけがあれば意識に浮かべることができる「前意識」に分類し、心が意識・前意識・無意識の三つの層によって成り立っているとしました。

 

抑うつ的性格を伴う分裂病」と診断された30歳女性の症例

 

主治医となったユングは、彼女に言語連想検査を実施した。その結果と彼女の夢から、抑うつ症状に陥ったきっかけは、昔、好きだった大金持ちの青年ハンスが彼女の結婚にショックを受けていたと友人に聞かされてからだった。ハンスに好かれていないと思った彼女は、泣く泣く別の男と結婚したのだった。その後すぐに子供がチフスで死んでしまった。ところが、彼女は子供の死因が汚水の入った風呂の水を飲むのを止めなかったということにあると自覚していなかった。それは、結婚のあらゆる痕跡を消し去って、かつて恋した相手のために自由でありたいという無意識の願望からの行動であり、子供殺しを自覚する代わりに、重い抑うつとなって自分を罰していることをユングは見出したのである。この女性は、その後二度と再発することはなかった。

 

<小山望 わかりやすい臨床心理学 参照>

 

上の説明から、無意識から意識に考えや価値観、欲求が移動すれば、重い抑うつ状態は治るということになります。重い抑うつ状態になりやすいのは、主に超自我が強い人であると思われます。「きれいなものを求める心」また「汚いものを許容できない心」から、自分に対して厳しくなってしまったり、目の前の現実を必要以上に悲観的に見てしまったりします。しかし、この自分に対する超自我、言い換えると自意識過剰状態を治すことができれば、抑うつ状態を治すことができます。うつ病を治すのに、薬で治療する方法もあるかもしれませんが、あくまで自分の持論ではありますが、価値観を1つかえればうつは少し回復し、3つかえれば完治しているのではないかと考えます。

 

自意識過剰状態を治すコツとしては、紹介した人の評価を気にしない方法が役に立ちます。視線を5メートル、もしくは10メートル先に投げ、それで生活をしてみたり、風の音が聞こえてくるような開放状態を保っておいたりするとよいでしょう。また、自分がコントロールできることと、コントロールできないことの区別をつけておくことも大事です。周りの状況や他人の性格など、どうしても変えられないことはたくさんあります。自分がコントロールできるものは何か考え、そこに目を向けてみましょう。ここは、のちに紹介する承認欲求の章や、ストレス原因の章でも話します

 

それと、だいたいのことは、深く考えすぎずにテキトーにやったほうがいいでしょう。アニメの話をすると、ワンパンマンでは主人公のサイタマや、ヴァング先生などは、テキトーにやるということを軸に置いています。ヴァング先生のせりふで「真剣にやってもテキトーにやっても結果は変わらん」みたいな発言をしています。結局、まじめに考えても、テキトー考えても、待ち受ける未来はそんなに変化は起きません。なら、人生なんて遊びだと考えて、テキトーに考えることも大事になってきます。遊びがない、テキトーが分からないという人は、身体と心が楽しいという感情で一致してくるまで、スキップをしてみてはどうですか?

楽に生きる生き方が少し分かるかもしれませんよ。

 

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エス・超自我・自我

今回は、エス超自我・自我の観点から、ボイトレカウンセリングをしていこうと思います 。

これからの文章は、下の本から参照しています。

 

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心にはエス・自我・超自我という三領域があります。エスとは、本能などの衝動があるところで、遺伝的に受け継がれ、生まれたばかりの赤ん坊の心は、ほとんどがエスからなっています。したがってエスは、一生涯幼児的性格をとどめ、衝動的、非合理的、非社会的、利己的です。超自我とは、自我の中の両親の権威であり、無意識的な両親や理想であります。そして自我とは、この両者と外界との間を調停する役割を果たします。特に現実に即してエスの動きを抑制し、満足させる機能をもっています。

 

プライドの話でもしたように、心の中の水の量は、誰もが一定であります。しかし、エス・自我・超自我のどこに水の量を集中させているかによって、その人のあり方は変わってきます。これらの相互作用によって、自我を中心に症状、行動、夢となって生じてきます。

 

<小山望 わかりやすい臨床心理学 参照>

 

 

 

まず自分は、エスというものを、「汚いもの許容する心」ということができると思います。しかし「利己的な子供心」ということもできます。この性質を強く持った人は、ストレスが溜まることが少ないため、体調不良も少ないのではないでしょうか。本能に従うことを第一に考える面があるので、超自我が強い人よりも人の目を気にすることはありません。またこの性質を強く持っているほうが、超自我が強い人よりも共感できる人々もいるので、本能に従う=優しくないというわけでもありません。

頭でっかちな人よりは、要領良く物事をこなせる場面もあるでしょう。

しかし、面倒くさがり屋な面があるので、努力家(大器晩成型)の人に運動や勉強の面、収入の面で追い抜かれる可能性があります。

 

一方超自我が強い人は、「きれいなものを求める心」ということができ、また「汚いものを許容できない心」ということもできます。このタイプの人は、完璧主義の傾向が強く、そのため身体が固まってしまうことが多いです。しかし、努力家が多いため大器晩成型が多いです。

しかし、無駄に人の目を気にしたり、まじめすぎてしまう面があるので、成長ができず努力が報われないことも実際あります。自分も高校生のころなどは、卓球部でそれなりに居残り練習や自主練習をしていたつもりではいたのですが、結局最下位争いから抜け出せませんでした。

 

また、超自我が強い人は、他人に努力の強制や、きれいなものの強制をしてしまうこともあります。

ブラック企業の本質も、努力家信仰の人が上層部を占めているからだということもできます。よく考えれば、まじめに上司についていっているものが出世し、上層部につくという循環ができているので、ブラック企業が変わらないのも必然ということもできます。

 

よくアニメや漫画でもこの構造がネタに使われます。

たとえば、アニメのサイコパスでは、人間が人間味をなくしたような世界で、平和というものを表面上実現しています(実際は執行官という警察官が、ストレス度の高く潜在的に犯罪者になりそうなものを捕まえる、もしくは排除)。サイコパスにでてくる敵キャラクターは、この偽りに見える平和に違和感を抱き、人間が人間たる社会であるために、極端ではありますが、殺人という手段も使って国家に対立します。また、集団的サイコパスという言葉も使われ、平和のためという言葉やきれいなもののためという言葉のためには手段を選ばないこともあります。この集団的サイコパスは、どの価値観を持った人にも言えることではあります。

 

 

他にも、僕のヒーローアカデミアというアニメでも同じ構造になっています。こちらのほうは、さらに極端な例にはなっています。ヒーローたちとヴィラン連合(敵の同盟)の構造も同じ図式になっていると思います。

 

アニメの話は、殺人も絡めた極端な例になっていますが、現実世界でもこの構造はあてはめられます。まじめな性質を持った人でないと、最終的に何か世の中の役に立つものを発明したり、誰かを感動させるものをつくったりはできないのは確かです。またそういう人の足を引っ張る人がいるのも事実です。しかし、まじめすぎる性質の人が、人を傷つけるのもまたしかりです。また、他人ではなく自分に対する完璧主義が強い人が、いつまでたっても報われないのもまたしかりです。

 

自分は、勧善懲悪な世界は基本あり得ないと思っていて、それぞれにそれぞれの正しさがあると思っています。無自我状態である空の意識とは、白黒両立、半分子供半分大人が成立している状態であると思っており、自己満足のために自分を動かし、自分を変えられる状態であると思っています。

そして、そのおこぼれで自然と他人のことを幸せにできるものです。

 

自分は、まだここに達成するまでには未熟な面はありますが、いつかここに達成したいなと思っています。

プライド・サイコパス

今回から、カウンセリング 系の記事を書いていこうと思います。

まず始めに言っておきたいことが、記事の題名にあるような、プライドやサイコパスという言葉に縛られ、必要以上に自己嫌悪に陥ったり、自分を変えることをためらったり、他人をむやみに否定したりしないほうが良いということです。

これらの言葉からくるネガティブ感情は、カウンセリングの観点からも障害になります。

まず、プライドという言葉に関して考察しようと思います。

  • プライド

まず、人間が持っているプライドの量を水だと考えてみてください。自分は、この量は人間全員が500mlのペットボトル分持っており、同じであると考えています。この水を入れるコップが違うだけなのです。自己嫌悪や劣等感という感情は、自分の体や心が、自分を守るために自己防衛として作ったコップです。これは、自己嫌悪に陥っている人を否定しているわけではありません。自分もまだこのコップに水を注いでしまうことは全然あります。これを、少し自分に対する成長のコップに使ってみたり、他の人に相談してみたりするだけでも、そこのコップからの水は移し替えられるかもしれません。例えば、世間ではよく「孤独になれ。」という有名人や本がたくさんありますが、これもプライドのコップで説明できると思います。自分と一緒に意見を共有できる人が一人以上でもいれば、それで心はある程度満たされますし、集団の輪を乱さないことにプライドの水を注ぐというのも、それもそれで立派な才能で、その人の能力です。しかし、そこから何かが原因でそこから離れてしまったり、あるいはあえて遠ざかった人が、そこのコップに水を注げなる、もしくは注がなくなったら、別のコップにプライドを注がざるをえなくなる。出た杭は打たれるといいますが、そこで突き抜けた人が成功者になるというのは、あくまでそこのコップに水を注ぎ切ったということです。どこのコップに水を注ぐかは、その人の采配で決めるべきではあります。なにか自分を変えてみたい、成長してみたいけれど、友達は失いたくないし、輪を乱したくないという人は、ちょっとだけ水を入れるコップを移し替えてみて、週3で遊んでいた友達グループから、週2で遊ぶようにしてみて、その分自分の時間に使ってみるなどでも問題はないでしょうし、なに変わった世界も見えてくるでしょう。

世間で使われるこの言葉も、あくまで価値観の違いであったり、そのひとがどの価値観のコップに水を注いでいるかということであると思っています(遺伝子的なサイコパスに関しては、勉強不足のため触れないでおきます。)例えば、外向性が高いと思われる人、いわゆる世間で陽キャといわれる人々は、人に興味を持つという価値観に水を注いでいます。そこで、内向性が高いと思われる人、いわゆる陰キャが、人にあまり興味を持たないサイコパスだという意見を持つこともあります。一方、陰キャといわれる人々は、狭いコミュニティー、もしくは一人で満足したいと思っており、自分のテリトリーをむやみに侵害してきたリ、何も危害を加えていないのに嫌味を言ってくるような陽キャのことを、サイコパスだと思うことはあります。こうなってくると、もうだいたいの人間はみんなサイコパスです。なので、自分がサイコパスだといわれ自己嫌悪におちいったり、むやみに他人をサイコパス判定するのではなく、自分の自己肯定感を挙げてみたり、他の人から何か積極的に取り入れてみるとよいでしょう。

プライドは悪口や嫌味ではなく手段であるということをふまえてもらえると、これからのボイトレカウンセリングも受け入れやすくなってくれると思います。

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歌い方レッスン12(脳と音楽)

今回の記事のレッスンは、全体的に下の本を参考にしたものです。とても良い本なので、ぜひ読んでみてください。

 


 

今回は主に、脳科学的な観点から反復練習の大事さを説明していきます。

筋肉(声帯、横隔膜、舌など)をどのように刺激し、動かすかは脳が決めます。この過程で、感覚器{触覚、視覚(歌い方レッスン6・7でやった音を見るという感覚)、筋肉の緊張度(歌い方レッスン2・3でやった体の力の抜き方やる必要あり)、関節の位置感覚、平衡感覚、聴覚}によって外的な状況と自分の体、両方の情報を得ることによって、目的の仕事を正確にプログラムすることができます。よって、聴覚から得た情報はもちろん、音を見るという感覚から得た視覚的な情報、身体の内部の筋肉の動かし方や足踏みなどで得た体全体を利用した運動感覚的な情報等たくさんの感覚器を利用したほうが、音感や拍感は身に着けやすいです。また、音楽はどんな構造をしているのかという分析的な情報も、脳にプログラムさせるには重要な情報となります。音は単音だけでは何の役にも立たず、横の連なり(メロディー)や縦の連なり(ハモリ)という全体像があって初めて要素のシンボル化が可能になるので、譜読みなどで音楽を分析し、全体像を把握しておくことは、合唱やアカペラで音をとる際にも有用になります。

このメカニズムは動作のスピードが速く、複雑な動作を続けて行う場合には、うまく機能しません。その場合には、脳は課題に対処するために自動化された動きを作り出さなければいけません。途中段階をすべてモニターしなくても動作が完遂できる、直接ルートです。脳は、お互いに接続された何十億という神経細胞からできています。コンピューターの回路とは違って、この接続は固定されておらず、変わることがあります。実際、神経細胞からそれぞれの回路に制御された過程を絶えず単純化しようとしています。こうした新しい接続ルートを使って、より効率的に反応することができます。演奏したり歌ったりするときに必要な自動的な動作を神経細胞的に説明すると、そういうことになります。楽器を演奏したり本格的に歌ったりすることは、神経系に課す命令のなかでも、最も難しい部類に入ります。新しいレパートリーを勉強して暗譜するために必要な技術を身に着け、磨き上げ、維持するために反復的な練習を必要とします。技術を修得したり、新しいものに挑む最初の内は、正確さも速さもむらがあり、視覚や音、咽頭の感覚などを頼りに動作の一つ一つが磨き抜かれ、一連の動き全体が望ましい動きでできるようになれば、技術的な細部に気をとられることなく表現を追求できます。

この段階になれば、動作は一つの自動的な音楽プログラムになったということができ、この段階にいろいろな技術が達した時点で、テキトーに楽しく歌うことができればいいのではないでしょうか。

歌い方レッスンは一度期間を開けますが、これからは、猿の音楽旅行のコーナーとともに、音楽の技術と心がどのようにつながっているかを説明して、音楽を使って心のケアをしていくボイトレカウンセリングもしていこうと思います。