猿の気まぐれ日記

こんにちは!このブログでは、ボイトレの知識やカウンセリング の知識や知恵、本の感想などを気まぐれで綴ります。

猿の読書日記(伊坂幸太郎・SOSの猿)

こんにちは!今回は、新コーナーの猿の読書日記です!(^^)!

まずこのコーナーで一つ目に紹介する本は、伊坂幸太郎の「SOSの猿」です。

この本の軸となっているテーマを自分勝手に分析してみると、「原因」「共感力」「悪魔を使った罪悪感の軽減」この3つが大きいと思います。

まず一つ目の「原因」について話していきます。この小説の、第2の主人公的存在である五十嵐は、感情を入れることなく原因を追究することにたけた、超合理的性格です。しかし、感情が薄いためすべてを合理的に考えてしまい、人の恩情などに関しても薄情なところがあるため、妻にもそれを理由に離婚されてしまいます。五十嵐は、起きたトラブルの原因を調べる仕事を任されており、そこで合理的な思考を使って的確に調査を追究していきます。その中で五十嵐が言っていた発言がとても興味深いものでした。原因は、何か100パーセント何かに偏ることはあり得ないという内容です。自分も、ここにはとても共感できました。基本、自分は30パーセント悪い、相手も30パーセント悪い、あとの40パーセントは他の環境的要因である、というように振り分けられるのが普通だと思います。なので、何かが起こってしまった時に、基本自分は30パーセントくらい悪いと思いつつ、人のせいにしぎず、自分のせいにもしすぎないというマインドがちょうどいいでしょう。さらに五十嵐は、基本一番の原因を、昆虫のせいにしたいと人はいつだって望んでいるといっています。それが一番ありがたいのです。なので、何か問題が起こった時には、どうやって昆虫のせいにするか(比喩)というマインドでいると楽かもしれませんね。そうなると、じゃあ仕方ないかってなるものです。

次に、「共感力」について話します。この小説の主人公である二郎は、共感力が高すぎて困っているような性格です。あまり表には出さないものの、救急車の音を聞くだけで、誰かが泣いているのではないかと想像し落ち込んだり、しなくてもいいおせっかいを、本当はしたくないと思いつつも我慢できずやってしまったりなど、優しい性格です。二郎の母親も、もともとこのような性格であったのが、二郎の父親が他界した後、とてもあか抜けてしまったというエピソードもあります。この小説の中で、このことに関する解決策のようなものも載っています。それは、状況が分からなくなってしまい不安な相手や、また赤の他人であっても不安になってしまった場合は、勝手にその人が幸せに暮らしていたり、その人が幸せになっていく未来を想像するということです。例えば、傷つけてしまって後悔している相手に対して、何か胸につっかえるような罪悪感を覚えてしまった経験はみんなあると思います。しかし、その人にはもう二度と会えないというような状況もたくさんあります。そんなときには、自己満足でその人が幸せになっていく未来を想像することしかできませんよね。でも、これをやるだけで心を軽くすることができるのは確かです、自分もこの本からこの価値観を得られたことはとても良かったです。漫画の話にはなりますが、僕のヒーローアカデミアでも、「自分は自分の人生の主人公で、他人の人生のわき役でしかない」というように、あくまでその相手にとって自分は、長い人生の中でのわき役でしかなかったと言い聞かせ、自分と向き合うのもいいかもしれませんね。

最期は、「悪魔を使った罪悪感の軽減」です。この話には、都市伝説的なことも含めていきます。二郎は、海外に留学した時に、友達の計らいで悪魔払いの人の弟子として働くシーンがあります。でも実際、本当に悪魔に憑かれていたような人は見受けられなかったといいます。基本、悪魔祓い=カウンセリングのようなものではないでしょうか。基本人は、自分の悪いところや弱いところを認めたくないものです。しかし、それと直面せざるを得なくなったとき、どのようにして自分を保つかという手段として、「悪魔に憑かれた」ということを用いるわけです。世界には、「悪魔信仰」というものも存在します。その「悪魔信仰」をしている団体が、本質的にどのような理念や目的を持っているかは自分にはわかりませんし。しかし一つ言えるのが、この「悪魔信仰」というものが、自分の罪悪感を打ち消してくれる一番手っ取り早い方法ということです。

「悪魔信仰」をしていれば、普通は罪悪感を感じることでも、「自分は悪魔を信仰しているから。」といえば罪悪感は半分かそれ以下で済むのでしょう。

この悪魔信仰というものは、西洋的2元論の価値観がベースとなっていますが(天使と悪魔)、日本神話や日本の生活文化を踏まえた日本人の価値観は、人間は心の中に天使も悪魔(日本でいうと鬼)も持っているというものです。八百万の神様というのも、何が良いことで何が悪いことという境界線をはっきりさせないことによってできたものだとも考えられます。

なにほどもほどほどに中庸という考え方をすると、よいのかもしれません。

この本はとても面白いので読みやすく、楽しく良い価値観を提供してくれる本なので、ぜひおすすめです!

次の記事も猿の読書日記のコーナーで、伊坂幸太郎の「砂漠」の紹介をします。